似て非なるもの

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ますます自転車と関係のない画像だな(^ ^)。
だが今日はシクロツーリスム関連の話題なのだ。

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シクロツーリスムと地域的観光事業に
関わるような仕事からリタイアして10年近く経つ。

それに関係のある本を書くことは別だけどね。

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ガイドサイクリングなどを含む
シクロツーリスム系のイベントや事業化は
この10年くらいのあいだに各地でけっこう発展したと思う。

それはけっこうなことであって、
自転車でレクリエーションする人口は総体的には
増えているのではないかと想像する。

ひと頃のロードバイクブームは沈静化したとはいえ、
ツーリング系イベントはそれなりの人気を維持しているように見える。

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私がイベントや自転車観光事業から
ある距離を置くようになった理由はいろいろあるが、
つい数日前に、どうも根本的な要因に辿り着いたような気がした。

先週、ランドナーの仲間とメールのやりとりをしていて気がついたのだ。

だからその認識は彼から大きなヒントをもらったと言っていい。

ありがたいことなのであった。

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ガイドサイクリングやイベントサイクリングが
本質的には自分の志向と一致しないと思ったのはけっこう前だ。

だがその理由が自分でもよく分析できていなかった。

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1970年代からランドナーに乗っているような
シクロツーリストは、だいたい皆、同様な体験を持っている。

サイクリングやシクロツーリスムというものを、
本質的には一人、または親しい仲間というような
ごく限られた人数で始め、自分ですべて計画して、遠出するのである。

友人がそのことをメールに書いていて、
そこではっとなったのである。

もちろん私もそういう経過を辿った。

ランドナーに乗る前の5段セミスポーツ車の頃から、
次第次第に行動半径を広げるようになっていたのだ。

ランドナーを入手してからいきなり始めたわけじゃない。

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つまり、サイクリングやシクロツーリスムの根本的なところに、
「自分でやる」「一人でもやる」というのがあるのだ。

もちろん、単独行ではリスクの大きい林道走行や
山里へのサイクリングなどは、ソロは推奨されるべきではないが、
ふつうの街中や郊外の舗装路上では、
ソロのサイクリングは特別なことではない。

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奇特な読者は、私が『素晴らしき自転車の旅』で、
「自転車の旅は芸術だ」みたいなことを書いたのを
記憶してくださっているかもしれない。

その考えは今でも変わらない。

だから面白いと思ってやってきたのだ。
最近はなかなか出かけられないんだけどさ。

「自転車の旅は遠回り」
「旅そのものが遠回り」というようなことも、
このブログなどで書いてきたはずである。

さて、そこのところなのだ。

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「芸術だ」と言ったのは、
それが創造的行為だと思ったからである。

ゼロではないにしろ、資源が限られたところから
何かを自分の意志で始めて、
自分なりの表現に結実させるということだ。

「遠回りだ」と書いたのは、
それが本来、利得的に見て不利なことをあえてやる、
ということだと思ったからである。

人はサイクリングをしなくても、
旅というものをしなくても、
人生を平穏無事に生きることはできる。
そこに深い愉しみがあるかどうかは別にしても。

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世の中の人口に比較すれば、
「芸術」を目指す人や
「遠回りの旅」を志向する人が多いとは言えない。

なぜか。

それらは利得にはあまり関係がなく、
多くの場合、むしろ苦労が物質的成果をしのぐ。

計算ずくで考えたら得になる可能性は高いとはいえないので、
それをやるにあたっては、
どうしてもひとつの素質が必要になる。

それは「創造的行為」や「旅」に対する情熱や愛である。

音楽の練習を見ればすぐわかるが、
ある達成に届くまで非常に時間や努力が必要なものは、
動機にそれだけのものがないと完遂できない。

だから少なからざる人は、
楽器を始めてひと月も立たないうちに
「私には才能がない」と言ってやめてしまう。

違う。

本当に才能があるかどうか、試されるそこまで
行く気がなかっただけなのである。

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芸術家を目指す人よりも、
経済的成功や実業的成功を目指す人が多いのは、
遠回りよりも近道を選ぶ人が多いことと
ほとんど同根であろう。

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あらかじめお断りしておくが、
以下は、私の志向するシクロツーリスムの範疇に
入らないものを批判するわけではない。

単に好みの違いがあるということを言いたいだけだ。

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ガイドが見どころを懇切丁寧に教えてくれるツアーでは、
参加者は道に迷うこともないだろうし、
一般的により評価されやすい事物や対象にスムースに到達できよう。

ガイドが連れて行ってくれるところでは
たいがいの地元の人にも歓迎されよう。
歓迎されないようなところに案内するわけがないからである。

また、一人で寂しい思いをすることもないであろう(^ ^)。

一人で旅をして「オタクだ」みたいにからかわれることもない(^ ^)。

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もうこれで答えは半分以上出たようなものだ。

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私が著書に記したような自転車の旅、シクロツーリスムは、
結局のところ、
自分で創り出さないとどうにもならないものだった。

ランドナーとともに若かりし日に旅に出たサイクリストのほとんども
私と同じだったはずである。

なぜソロや少人数での活動が多かったのか?

最大公約数じゃやる意味がないと思ったからだ。

バス旅行や団体旅行が性に合わないから、
勝手気儘に行動できる自転車に乗ったのである。

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繰り返しになるが、
キーワードは、
「芸術」「群れない」「遠回り」というようなことである。

これらは、
ガイドサイクリングやイベントサイクリングが目指す方向性とは
ほとんど相容れない。

今日のこの記事は、
その理由について考えてきたということだ。

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ガイドサイクリングやイベントサイクリングが
多くの行政や観光協会等にとって歓迎すべきなのは、
それが経済的成功とともに広報的成功をもたらし、
場合によっては前向きな人的交流等をもたらすからである。

その多くは量的に、定量的に計測可能なものだ。

これは非常にわかりやすく単純な方向性であるが、
逆にそのことによって、
本質の一端を見えにくくしている。

それは、世間が常識的に求めるものを与えることで、
成立している。

その常識とは何だろう?

私はこう考える。

近代という時代が生み出した通念、すなわち
経済的成功、知名度的成功、民主的多数賛成による成功、
そういうものと表裏一体だったということではないのか。

だとすればそれは多分に
「消費の奨励」に近いことなのであって、
ある意味「芸術の創造」とは正反対である。

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芸術は創造だが、そこには常識の超越や破壊というモードも含まれる。

近代の中で、前近代から受け継がれてきた芸術の様式も
一部は近代に屈した。

クラシック音楽の歴史を辿ればよくわかる。
かつては即興演奏が珍しくなかったのに、
いつのまにか、譜面通りに弾くことが最重要視されるようになった。

大量生産的に興業収入を得るために、
ホールは巨大化し、管弦楽はますます大編成になった。

もちろんそれによって音楽の恩恵に浴する人が増えたのは
良い点であり、音楽の大衆化に貢献した。

その一方で、「クラシック」という言葉が象徴するように
次第に硬直化していった。

20世紀になってジャズ等で即興演奏の復権が起こったのも、
クラシックがその機能を果たせなくなったからとも言える。

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別にその時点でトフラーの『第三の波』を読んだり、
反近代的なるものに思いを寄せていたわけなんかじゃなかったが(^ ^)、
当時のランドナー・ティーンエイジャーの少なからざる割合が、
どこかに「近代からの逃走」みたいな要素を
たとえ無意識的にしても体現していたんじゃないかと思う。

今日びのスマートなサイクリストに感じられるものは、
そういうものから遠い。

ちゃんとシステム化された自転車遊びがあることを
むしろありがたく思っている可能性が高い。

それはその人の趣味だから、もちろん否定はしない。

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ただ私や私の仲間は、逆の方向を見ていたということだけだ。

近代の経済主義、産業主義、大量生産画一主義、
おためごかしの連帯感、訳のわかったような顔、
そういうものに背を向けて、
ほかに表現のしようもないものにいつか辿り付くために
自転車に乗って旅または旅のようなものをしてきた、
ということなのだ。

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スポーツ車という括りの自転車に乗り、
日常と違う場所に出かけ、
質的に新しい経験をしようと思っているところまでは
同じなのかもしれないが、
着地点や見ている方向が違うのだ。

われわれにとっての「解」は、
それがあるかどうかもわからず、
あったとしても、
それは個々に異なるために、
標準化できなかったということなのである。

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大げさに言えば、
われわれは近代というプログラムに対する小さな反乱、
この星の支配システムに対する微小なレジスタンスとして
自転車で旅をしたかったのである。

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ナマステ。ピース。