切り離された時空/聴覚的な何か

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更新している余裕がないうちに、
3.11から7年が経過した。

あの2011年の春は、
皆そうだろうが、本当に春が来た気がしなかった。

桜を見ても正視できないというか、
息苦しさのようなどうしようもないものが
つきまとっていた。

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あの日の頃から、
いろんなビジョンが脳裏に浮かぶようになり、
それは今ここでは詳しく書かないけれども、
2011年に書いた拙作の小説、
『YAMABUKI』の中に記しておいた
(『第15回伊豆文学賞優秀作品集 敬太とかわうそ』に収録)。

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半世紀ぐらい生きた人ならおそらくは誰もが、
一度や二度は、「時空の敷居」みたいなところを
越えた経験があるであろう。

そのあとと前では、まるで人生観や世界観が
変わってしまうような何かだ。

3.11もそれだった。

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20世紀前半に生まれた人なら、
1945年頃がやはり同じだっただろう。

価値観が根底から覆った人もいれば、
それほどではなかった人もいるだろうが、
その時節が決定的でなかった人はおそらくほとんどいない。

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3.11もそのように巨大な境界線だったはずだが、
これから全世界に生じることもまた同様であろう。

ただし、これから起きることは
よりポジティブな理解が可能なものになると思われる。

全人類を巻き込んでいた巨大な虚構が
おそらく根本的な改訂を受けることになるであろうから。

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これからはずっと良くなるだろう。

最初はそう見えなかったとしても。

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さて、サイクリストにはオーディオファンも多い。

自動車道楽やモト道楽は、
そもそも原動機の爆音がひとつの魅力になっている。

それに比べると、自転車は悲しいくらい静かである。

まあ、たまにはフリーのラチェット機構が発する音や、
マファックのブレーキシューが出す恐るべき音響に対して、
愛好家諸兄らが口角泡を飛ばして談義することはあれど、
「この音がいいから○○○にオーダーしてしまった」
などというようなことは、
普通にはまずあり得ないのである。

しかるに、なぜサイクリストの一部は
オーディオに凝ってしまうのであろうか?

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思うに、自転車の音響とは、パッシブである。

レースカーやモトが、アクティブな音響によって
ファン層を魅了するのと違うのである。

自転車は、まったく無音というわけではないが、
人間の乗れる陸上の乗り物の中では、
EVやエレバイクが出現するまでは
非常に静かな種類のものであった。

われわれが自転車で旅することの好むのも、
その静けさに起因するところが少なくない。

自転車は静かであるがゆえに、
環境音がよく聞こえるのである。

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いささか逆説的に聞こえるであろうが、
オーディオにもこのような面は厳然としてあるのだ。

SN比なんてのはそういうことに当たらずとも遠からずと思う。

演奏、信号が途絶えたとたんの「沈黙」に、
クオリティの差を感じてしまうことがあるのだ。

ポール・サイモンの歌詞の一部みたいだが、そうなのだ。

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オーディオでよく言われる理想や理念の
典型的なものは、「原音の再生」である。

この金言に疑問を感じない人のほうがむしろ多い。

しかし、「原音」とはそもそも何なのだ?

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その音が発生した環境は、
その音を再生しようとする環境とは違うし、
その音の成分にその音が生まれたところの環境要因が
再現されていたとしても、実際にその音をスピーカユニットから
鳴らした場合は、再生されている空間の音響的特性も
再生自体に影響する。

人間の耳や聴覚は、一人ひとり異なるし、
同一人物でも、加齢や体調やそのときの意識状態で
大きく変化することは当然であるうえ、
絶対音感のように、一定の方向に調教されたような
感覚が実在している場合もある。

つまり、どこを「原音」とするか、
そもそもリファレンスが存在しないとも言える。

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「原音の忠実な再生」以外に、
オーディオの理念的目標は存在しないのか?

そんなことはない。

英語圏では Good Reproduction という言い方がある。

私流にこれを意訳すると、
「美的な再構築」ということになるが、
実際にはもっと簡単な意味で、
「良い再生」ってことだろうね。

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オーディオで「再生された音」は、
場合によっては「原音」よりも美的に洗練される場合だってある。

ハープシコードの音がもともと小さいからといって、
歴史的名器と同じような音量にしなければおかしい、
ということもないであろう。

そもそも、楽器にはボリュームつまみや
アッテネーターは付いていないのだ。

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自分の考え方だから人に強要する気は毛頭ないけど、
小説だってこれに近い。

小説も、再構築された、
あるいは再構築される準備の整った、
言語的(多次元的)現実なのであって、
虚構ではあるが、3次元の現実以上の何かを
示唆または再現できているために、
人はそれを読む。

小説は本や活字という物質的実在の上に
成り立ってはいるが、
しかし小説が現前させる世界は3次元現実=物質ではない。

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オーディオの世界の中で、
Good Reprodution という言葉や考え方が存在するのは、
芸術もまた「自然の完成」と美学で言われるように、
現実以上の何かを求めているるからである。

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ナマステ。ピース。